突然ですが、私は野村史子さんの「薔薇はもうこない」という作品が大好きです。ということで、野村史子さんの「薔薇はもうこない」という小説作品が好きすぎる話をします。大好きな作品なのにネットに紹介記事が少なすぎて悲しかったので書くことにしました。
この界隈ではもはや古典な域に来ている作品ですが、作品の素晴らしさは全く衰えていないので、本当におすすめです。この作品に限らず、野村史子さんの作品はどれも激しくて美しくて最高なので機会があれば本当に読んでほしいです。追記で始まります。凄い勢いでネタバレしているので注意してください。
1. 「薔薇はもうこない」とは
「薔薇はもうこない」とは、野村史子さんが書かれた所謂SMモノのJUNE小説(要するに耽美小説)で、1986年-87年にJUNEにて掲載された作品です。約30年前の作品です。ちなみに上記の2冊で読むことが出来ます。
1-1. 野村史子とは
野村史子さんとは、JUNEで連載されていた「小説道場」に衝撃的な作品を投稿し続け、多くの読者たちを魅了させたにも関わらず、僅か2年ほどで執筆活動を終えた、JUNE文化をかじっている者なら誰もが知る伝説の作家さんです。詳しくはググってください(人任せ)。JUNEの世界でしか生きることが出来ない作品を書き続け、JUNEの世界を駆け抜けた後、筆を折ったJUNEを愛し(※私の勝手な幻想)JUNEに愛された(※マジ)JUNEオブJUNEな伝説の女性です。
耽美小説なので、要するに男と男があれやこれやする作品ですが、野村史子さんの小説は「耽美小説」の一言では片づけられない程のマジとんでもないハードコアです。ドエロいとかそういうのではなく、作品内で描かれる、悲しい運命に落ちて行く男達の姿が濃く激しくて読んでいて苦しくなるのです。その苦しさが気持ち良すぎる。闇の腐女子とか悲恋BLが好きな方には間違いなく刺さる感じのお話を描いています。でもBLとJUNEは違うのでBLのテンションで読むと火傷します。
<ここからネタバレ注意>
2. あらすじ
(引用:サン出版「JUNE」1986年11月号 p.99)
この作品は、ざっくりいうと、倒産寸前の会社の社長の息子である藤波圭が、会社再建の資金援助を受けるため、圭のいとこで、大企業経営者一族の息子である日高俊明のいわゆる性奴隷にさせられ、それがきっかけでお互い破滅の道を歩むことになる悲しくてだけど美しいお話です(雑)。
日高の性奴隷になることを求められた圭は、当然最初はそれを拒みます。しかし、姉の死により事態は急変し、圭は日高の元で性奴隷的日々を送るようになります。
ところで、圭の誕生日には毎年匿名で「愛をこめて」というメッセージカードと共に薔薇の花束が届いていました。その送り主は日高だったことを圭は知ります。そんな日高は圭のことを愛していましたが、彼の愛はあまりにも歪んでいました。日高は圭をただ単純にセックスの道具として利用するのではなく、圭の体を痛めつけ、肉体的苦痛を与え続けました。日高を恨んでおかしくないはずの圭でしたが、日高と過ごす中で圭は日高に対して愛情に似た何かを感じるようになります。
圭が自分のほうに向き始めたことに気が付いた日高は、愛しい人を歪んだ方法でしか愛せない自分の本当の意味に気が付き、苦しみました。悩んだ末、自ら命を断つという結論に至ります。日高の死に涙した圭は、日高を追いかけるようにして、「薔薇はもうこないんだ」とだけ書かれた遺書を残して命を絶ったのでした。
って感じの話です。あらすじだけじゃ「そんな熱狂する話か~?」って感じですし、もはやギャグ状態なんですけど、いやこれがとてつもなく萌える作品なんですよ奥さん.....。
3. ここが好き
やっと書きたいところに辿り着いたよ.....相変わらず遅漏......。
3-1. そもそも挿絵が美しすぎる
「いや本編の話しろや!!!」ってつっこみが聞こえてきますが、まあ落ち着いてください。この作品の挿絵、ありえんほど美しいのです。
まあ~~~~、魔木子先生*1の絵がこの作品の病的な世界観とめちゃくちゃ合っている!!!!! たまりません!!!! 勿論麻々原さんの絵のほうも素敵ですし、魔木子さんの絵よりは間違いなくとっつきやすいのですが、魔木子先生な薔薇はもうこないは美しい以外の何物でもない!!!!
(左:サン出版「JUNE」1986年11月号 p.99 、右:サン出版「JUNE」1987年1月号 p.99*2より引用)
ところで、この雑誌引っ張り出してきて読み直してたら、もくじで「問題小説『薔薇はもうこない』」とか書かれていてめっちゃ笑った。
フゥ~~~~~ッ! めっちゃ耽美~~~~!!! 繊細なタッチが美しい~~~~ザ・JUNEって感じぃ~~~~~~↑↑ 危険な香りがたまんねえ~~~~!!! 互いが互いを破滅に導き、儚く散っていく二人の姿を忠実に再現している~~~~!! って気持ちにしてくれるこの美麗な挿絵が最高。
(引用:サン出版「JUNE」1987年1月号 p.105)
そして気が狂うほど大好きな挿絵を見てほしい。実際、圭はもっとボロボロで憎しみに満ちた目で日高を見ている気がして仕方ないけど、美しさの前ではそんなことどうでもよくなるのでオッケーオッケー(?)
というわけで、JUNE掲載な薔薇はもうこないには、魔木子先生の美麗挿絵の大バーゲンセール状態が繰り広げられているので、もし機会があったら是非見てほしいです。
3-2. 作品で描かれるテーマが美しすぎる
もうこれこれこれ~~~~~!!!! もうこの作品の一番良いとこはこれ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!*3
この作品は(文庫版換算で)約80Pほどの短編小説なのですが、もう情報量が凄い。濃ゆすぎる。1Pも無駄なページがない。1ページ1ページ全てがこの作品で伝えたいであろうテーマに向かっていく力が凄い。そして最後のページで全てが美しく納まり、そして儚く消えてゆく姿を描くことが出来るあの技術はもう「伝説の作家」としか言いようがない。
野村史子さんの熱狂的ファンな方からしたら、読みこみの浅さで怒られてしまうかもしれませんが、私的にはこの作品では主に、
・歪んだ方法でしか愛せない男の悲劇とそんな愛が向けられてしまった男の悲劇
・知らないという罪と知り過ぎたという罪の間で苦しむ人々の悲劇
が描きたかったテーマなのではないかと思っており、この二点こそが私がこの作品に魅せられた要素です。ということでこのことについて、以降で触れていこうと思います。
3-2-1. 歪んだ方法でしか愛せない男の悲劇とそんな愛が向けられてしまった男の悲劇が美しすぎる
あらすじを読んだら多分分かると思うんですが、所謂攻めサイドの日高は圭のことが好きなのに、苦しめることでしか愛すことが出来ない歪んだ男です。しかし、日高も元々はこんな歪んだ人物ではありませんでした。それなのにそうなってしまったのは、若かりし頃の圭の言動故だったのです。......が、その話は次項で話すのでとりあえず置いておきます。兎に角、日高に愛されてしまったばかりに、圭は日高の病的な世界に飲みこまれ、共に破滅の道を歩む運命を辿ってしまいます。
ここには、
・愛しい人を愛したいのに傷つけることしか出来ない日高の悲しい姿
・圭に救いを求めれば求めるほど自分が崩壊していってしまう日高の姿
・日高の激しい闇の中で圭は初めて愛を知ってしまったという悲劇
・圭のことを愛していたのに、最後まで圭を歪んだ愛でしか愛せなかった日高の悲劇
・圭の光から逃れられない日高と日高の闇から逃れられない圭の悲劇
その他諸々が詰まっているのです。これが本当にたまらんくて美しすぎるのですよ.....。互いが互いの首を絞め、共に闇に堕ちて行く愛憎劇がマジクソにたまらんのですよ........。
3-2-2. 知らないという罪と知り過ぎたという罪の間で苦しむ人々の悲劇
※この部分めちゃくちゃ思いがあるんだけど、上手くまとめられなかったので他の部分に増して意味不明文章になっています。すみません。熱だけでも伝わってほしい。
上記で、この作品は色んな悲劇が交差してとんでもないことになる(語彙力)ことが分かっていただけたのではないかと思うのですが、その悲劇の根底にあるのが、知らないという罪と知り過ぎた罪なのです。そして、その「知らない罪」の象徴が圭であり、「知り過ぎた罪」の象徴が日高なのです。この相反する罪が交差した時に引き起こされる化学反応?が、圭と日高の悲劇を通して美しく描かれているのがこの作品だと私は思っています。
圭は知らなかっただけのです。日高がどういう生い立ちで、どういう思いを抱いて過ごしていたのか、そしてそんな自分の目の前に現れた圭が如何に希望の光に見えていたのかを。そして、毎年誕生日に匿名で薔薇の花束を送ってくれていた日高の気持ちさえも。知らない、それが圭の人生最大の罪なのです。そしてここから知らないという罪と知り過ぎたという罪の間で苦しむ男たちの悲劇が始まったのです。
「あんたってバカね、本当にバカね。気づこうとさえ思えば、すぐに分かることなのに......。俊明さんはどんな気持ちだったでしょうね、毎年、毎年カードを書きながら.......」
噎せ返るような薔薇の香りが、唐突に圭を包んだ。それは、まるで日高の執念のようだった。圭は、わけのわからない不安におびえたのである。
(引用:野村史子『テイク・ラブ』角川書店、1991年、p.216「薔薇はもうこない」)
そんな悲劇の幕開けを表現しているのがこの文章なんですけどこれ超来るものがありませんか......。ベタベタのクサクサなんですけど私はこういうのにめっちゃ弱いんですよね......。
<ここから自己解釈>日高がどんな思いを抱いて自分に対する恋心を打ち明けたかを知らなかったというところから始まった、圭の知らないということに対する贖罪は、日高が本当に心から自分を愛してくれていたことを知らずに死んでいくということでした。
それと同時に、実力も金も地位も名声も手に入れ、この世を知り尽くしてしまった日高の贖罪もまた知り過ぎた果てに死に至るということでありました。日高は、自分が唯一手に入れられなかった、そしてこれからも永遠に手に入れることが出来ないのは圭ではなく、愛する人をただ純粋に優しく愛することが出来る――いわば正常な愛であるということを知ります。日高は自分を知り過ぎてしまったのです。自分の闇から逃れられない自分を。この闇から解放されるために必要なのは、圭ではなく自らの死であることを。</ここまで自己解釈>
そんな「知らない」の象徴である圭と、「知り過ぎた」という象徴である日高を上手く表現してる文章が本編にあるので貼っておきます。
圭は、愛と憎悪の、ぎりぎりの淵に立っていた。それがどれほど危険なことであるか、知っていたのは日高の方だった。
(引用:野村史子『テイク・ラブ』角川書店、1991年、p.268「薔薇はもうこない」)
この文だけ読んでも「?」としかならないかもしれませんが、既に愛と憎悪のぎりぎりの淵に立っていて、この場所の残酷さを知っている日高が同じ境地に辿り着いてしまった・まだこの境地の激しさを知らない圭を見つめているってことが描かれているこの文章め~っちゃ美しくないですか......。
3-3. 文章が生きていてそれでいて美しい
ここまでこの記事を読んだ且つこの作品を読んだことがない方は、恐らく「こいつ殆ど話バラしてるじゃねえか、ばかだなあ、読ませる気ねえだろ」ってお思いでしょう。......。....................................。
バカヤロウ!!!!!!!!!!!!!!!!!!
こんなヘタクソな文章であの作品の美しさが伝えられている訳がないだろう!!!!!!!!!!!!! この作品は!!!!!!!!!! 文章が!!!!!!!!!! ありえんほど!!!!!!!!! 生きていて!!!!!!!!!!!! 美しいんだよ!!!!!!!!!!!! 彼女の文章であの作品を味わなきゃ!!!!!!! 何の意味もねえんだよ!!!!!!!!!!!
ということで、この作品は文章が生きているのです。この作品の話の展開自体もそうですけど、文章が振り切っているのです。文章が彼女の中にある情熱を表現するため、最大限に生かされているのです。
文自体はめちゃくちゃだったり自己陶酔感が半端なくて、普通の商業作品や文芸作品だとご法度であろう文章・表現方法全開なんですけど、この作品がいるのは小説道場という何もかも許されてしまう*4フィールド。故に文章が生き生きしまくっている。それ故に文章がとても美しい!!!! やっぱ小説道場は良い文化だな.....
ということでそれを正に物語っている且つ私がこの作品で好きな文章の一部をご紹介いたします。
「あんまり泣くと、絶縁体が濡れるよ、君がつらいだけだ」
涙でぐしょぐしょの圭の顔にキスをして、日高は、やさしくいった。いいながら、スイッチをいれた.................................................................................
(引用:野村史子『テイク・ラブ』角川書店、1991年、p.207「薔薇はもうこない」)
見てこの三点リーダー(「......」)の多さ!!!!!!!! 自由すぎでしょ!!!!!!! 私が適当に打ってると思うでしょ? 違います。数えてみたら81個あったのでちゃんと81個打ってます多分(?) こうして見るとあんまりインパクト無いかもしれませんが、紙で読むとこのパワー感が半端ないので是非感じてほしいです。このほかにもこの作品には自由すぎる文章がちりばめられまくっています。自由すぎて笑ってしまいますがやっぱり良い。
唐突に、遠い夏の日の情景が、圭の脳裏によみがえった。頬を染めて、圭に、好きだ、といった美しい従妹。涙がこぼれた。
かれは、初めて日高の悲しみを理解したのだった。知らない、ということの残酷さ、知ろうともしなかった罪の深さと共に......。
(引用:野村史子『テイク・ラブ』角川書店、1991年、p.254「薔薇はもうこない」)
ああ~~~~~~~~美しいよ~~~~~~~~~~~~~~!!!!! ここだけ抜粋しても伝わらないかもしれませんが、この前に繰り広げられている愛憎劇を見てからこの文章を読むともう胸が苦しくて最高&最高
でも一番好きな文章はラスト15ページ程度ですね。
「――幸福な圭。光の中の圭。さようなら。私は、私の闇から逃れられない」
(引用:野村史子『テイク・ラブ』角川書店、1991年、p.278「薔薇はもうこない」)
これとか。クライマックスは本当にずっと美しくて苦しいので読んでいて本当にたまらないので是非読んでほしいです。特に最後の二行の美しさったらない!!! けど是非あの美しさを本編で堪能して欲しいのでここではあえて紹介しません。
とにかくこの作品の文章は振り切りまくっていて、それでいて一つ一つが美しくて胸を締め付けられるのです!!!!!!
3-4. SMモノの醍醐味が分かる
SMモノの作品なのにSMに触れるのが最後になってすいません。けど、最初に述べたように私的にはSM描写は後からついてきたようにしか思えないんですよね。*5
個人的にこの作品のSMシーン自体は大したことありません。しかし、SM萌えを持ち合わせていなかった私()が目覚めてしまうほど魅せられたのは!!! まぎれもなく!!! その前後に!!!! 圭と日高の激しい愛憎劇があったからでしょう!!! 日高がどういう経歴を持ち、どういう気持ちで圭を痛めつけているのかの想像を膨らませながら読むと!!! ハァ~~~~~たまんねえなァ~~~~~!!!!!!!!!! 圭を痛めつけている時、日高もまた自らの首を絞めている・圭に痛めつけられているこの感じがたまらねえ~~~~~~~~!!!!! って感じになります。
ということで、この作品は「JUNEちっくなSMモノが書きたいならその前後に激しいドラマを盛り込め」ということを教えてくれる作品です(?)。物理的にも精神的にも追い詰めるSMは最高*6。
4. 終わりに
BLにしろJUNEにしろ、男性同士の恋愛劇を書く・読む文化って、男性が好きであることが前提に成り立っている文化じゃないですか。しかし、野村史子さんは男社会に対する憎しみから作品を書き続けていたそうです。詳しくは下記の記事を参考してください。
この話を踏まえて改めて見ると、彼女の作品たちが未だに衝撃的で唯一無二でありつづける理由が分かるような気がします*7。そんな彼女が生み出した衝撃的な作品の数々の中で、普通に愛することが出来なくて、もがき苦しんでいる男二人の愛憎劇を激しく、そして美しく描いた「薔薇はもうこない」が私は大好きなのです。野村史子さん自体の話もしたいのですが、いかんせん私が彼女のことを何も知らなさすぎるので、もうちょっと知ってそれで気持ちが昂りまくった時に書きたいです。
という訳で、この記事を読んで、少しでも「薔薇はもうこない」が気になってくれたら幸いです。そして読んで、インターネットの海に感想記事をぶち撒いてください。私は人様が書いた野村さんの作品の感想文及び野村さんの作品から始まる腐女子論に飢えているので本当にお願いします......。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
もっとこの作品について詳しく読ませてくれという人向け(この記事のエゴ全開版):
*1:ちなみに、野村史子さんは「さん」で、魔木子先生は「先生」呼びなのに特に深い意味はありません。なんかそう呼びたいのでそう呼ばせてもらっているだけです。
*2:自前だよ
*3:美しい作品の美しさを伝えたくてこの記事を書いているのに相変わらず私の文章は下品極まりない
*4:なぜなら小説道場はデビューを目的とした人々が集まる場所ではないからだ いや小説道場出身の作家さんは沢山いるけど どういうことだよって思う人は自分でぐぐって
*5:いや、「SMが書きたい」ってなって書き始めたのかもしれませんが、でもその根底にあったのは上記で紹介したような別のモチーフがあったのではないかってつい思ってしまいます
*6:そんなの常識なんですけどってマジレスが聞こえてくるけど私にとっては大発見だったんです、、、
*7:あ、いやでも憎しみからBL書いてる感ある人もう一人知ってた.....けどここでは言わない