去年はマジでブログを更新していなかったとはいえ更新する気持ち自体はあり、ちょくちょく書いてはいたのですが、めんどくさくなり放置・お蔵入りになってしまった記事が若干あります。
それを書き上げて公開させれば良いんでしょうけど、やっぱりめんどくさいです。でもまあまあ書いているので、全く世に出さないのもなんだかなあ、でも世に出すにはめちゃくちゃだしなあと悩みましたが.................公開し~ちゃお!!
ということで、今回はシンエヴァを観てありえんほど号泣した時のクソデカスケールお気持ち&自分語り没記事を晒します。シンエヴァに対するお気持ちで書き始めたのに、エヴァとの出会いを語っているところで挫折してるのめっちゃウケる。
マジで校正・推敲してない激痛文(でもあまりに意味が伝わらない文のとこは手を加えました)ですが、お許しください。あと勿論ネタバレ有りです。
今は没記事状態ですが、ぶっちゃけこの記事はいつか綺麗に整えて完成させたいと思っているので、もしかしたら数年後に完成版が出来るかもしれません。ただ、エヴァに対する思いがデカすぎて、「半端な姿勢じゃ書けないな、でもきっちり見直す時間がないな」とうだうだしてたら没になってしまいました。つまり、今後も没のままの可能性があるという、、、
ということで、追記で始まります。
仮題:全ての子供達におめでとう(新劇場版完結に寄せて)
私が「新世紀エヴァンゲリオン」という作品と出会ったのは2007年、12歳――中学1年生の春だった。
その頃の私といえば、本当に何にも興味がなく、クラスメイトにも勿論興味がなかった。だから声を掛けられても、興味がないから、会話を膨らませようとする気持ちが全くなかった。当然、クラスで浮いた存在になった。
女が1人で過ごしている姿は惨めなものである。1人でいること自体はあまり苦ではなかったが、可愛そうな目で見られているんだろうなと思うと辛いものがあった。それならば、我慢してでも誰かと仲良くしなければいけない。だけど、私にはそれが出来なかった。
そんな生活を続けていると、どんどん自分のことが嫌いになる。どうして自分はみんなと同じように人と関われないのだろう。誰といても全然楽しくない。でもどうしてもみんなと一緒になろうと努力することが出来ない。気を遣って優しくしてくれる人の気持ちさえ素直に受け取れない自分が嫌いだ。こんな後ろ向きな考えしか出来ない自分が大嫌いだ。……などなど、学校にいると自分のことがどんどん嫌いになっていくので本当に苦痛だったが、不登校になる勇気もなく、「楽しくないな」「しんどいな」とばかり思いながら過ごしていた。
ただ、そんな私にも唯一好きなことがあり、それがネットサーフィンだった。誰とも会話する必要がなければ、誰の目も気にする必要もない。ただ自由に欲望のまま動き回ることが出来るネットの世界が今も昔も大好きだ。そして、私はネットの海で偶然にも「新世紀エヴァンゲリオン」という作品と出会った。
それまで私が出会ってきた「物語」といえば、「前向きで誰からも好かれる主人公が仲間と共に困難を乗り越えていく」というものばかりだった。だから、新世紀エヴァンゲリオンの、主人公が内向的なところ、上手く人と接することが出来ずうじうじと悩む姿、人も街もむごたらしく破壊されていく光景は12歳の私を一瞬で魅了した。
当時は漫画やアニメのオタクというわけでもなく、ましては他の人に比べて触れた作品の数が圧倒的に少ないであろう12歳だったので、こんなことを描く作品があるという事実とこんな感情を抱えているのは自分だけではないという事実は、私の気持ちを大分楽にさせてくれた。碇シンジ――シンジくんが傷つくことを恐れている姿や他人を拒絶する姿、だけど寂しくて、他人に助けを求め苦しむ姿は、痛いほどに分かった。そこに自分がいると、当時は本気で思っていた。
エヴァやシンジくんにどっぷりハマった頃には、もうすっかり「オタク」になっていた。エヴァをきっかけに深夜アニメを観るようになったり、BL文化に足をつっこみはじめたり、二次創作をしてみたりと、私はインターネットに転がる情報たちを貪り続けた。知らなかったことを知ることで、閉塞した世界が少しずつ広がっていくようなあの感覚は、心の傷を癒やしてくれた。自分が知らなかっただけで楽しいことはいっぱいあるのだということが分かり、そのことを考えていればあっという間に1日が終わるようになり、前よりは学校にいても辛くなくなった。
とはいえ、ふと我に返り、自分を客観的に見つめてみると、やはりクラスメイトの女子たちとは明らかに違う動きをしていたし、かといって男子たちと仲良く出来るというわけでもなく、そのたびに自分って一体何なのだろうと思っていた。自分は自分に対してこんなに悩んでいるのに、周りはなんであんなに幸せそうに過ごせているのだろう。真面目に授業を受けて課題をきっちりこなしている自分ではなく、成績が悪いあの人のほうがどうしてあんなに人と上手くやれるのだろう。どうして自分だけが。気が狂いそうだった。今ならば、そう思っているのは自分だけではないと分かるが、世界が自分中心にまわっている12歳がそんなこと分かるはずがないのだ。
他人がいるから自分が惨めにみえるのだ。みんないなくなってしまえばいい。誰も自分に触れないで欲しい。だけど、寂しい。じゃあどうすれば良いのか分からない。だからみんないなくなってしまえばいい。そんな、どうしようもない感情を痛いほどに映し出していたのが旧劇場版だ。
何が起こっているのか当然分かるわけがなかった。だけど、なぜか涙がこぼれた。シンジくんのなかに自分がいる。人が嫌いだ、だけど寂しい、苦しい、でもどうすれば良いのかわからないと叫んでいる声が聞こえると本気で思った。
旧劇場版と出会った以降、様々な作品に触れたが、未だにあれほど孤独やどこにも行けない無力感や閉塞感、そこから生まれる破壊欲を描けている作品には未だに出会えていない。旧劇場版は見ても前向きな気持ちにはならない。だけど、このどうしようもない感情は抱えていて良いものなのだという事実は何よりも強かった。中学生の頃は、生きるのが辛くなる度に見ては何度も何度も傷を癒やしたものだった。自分が内に抱えている傷が形になっている光景や全て破壊していくその姿は何にも変えられぬカタルシスがあった。
そういうわけで、私は旧劇場版が大好きである。とはいえ、あのエンディングでは何も分からない。あの続きが見たいのだ。あの赤い海から二人はどうなるのか、それが知りたいのだ。新劇場版にはそれを求めていた。
だが、新劇場版には圧倒的に心理描写が足りない。リアルタイムでエヴァンゲリオンというコンテンツを追いかけられている事実、それだけでありがたいと思わないといけないのだが、シンジくんが人との関わり方で悩み苦しんでいる姿が聞こえてこないのだ。心理描写部分が全くないというわけではないはずだが、新劇場版の彼は、まるで演者のようだった。序と破はTV版をなぞっているから心理描写が少ないことは理解出来た。Qからが本番だと思っていた。だけど、Qになってもシンジくんは追い詰められない。いきなり14年経って、状況が理解出来ず疲弊している彼ではなく、やっと居場所を見つけ始めたというところで突き放されて真っ向から混乱する彼が観たいのに、あと1作でそんなところまで観られるはずがない。ここから旧劇場版の続きが観られるビジョンが全く見えない。Qは腐女子としてはたまらない出来ではあったが、いち作品のファンとしては大いに不安が残る作品であった。残り一作でどうやって着地するのだろう、どう考えてもあと90分ほどでこれらを回収出来るはずがない。
(没文ここまで)